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【会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・五章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p.192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)


第一部
〈五章〉


【要約】
前述のように、ウニの環境世界では、反射個体のひとつひとつに場所の標識があると想定されるため、これらが統合される可能性はない。したがって、多くの場所をまとめることを必要とする、形と運動の知覚標識は、ウニの世界では必然的に欠けている。形と運動は、もっと高等な知覚世界においてはじめて現れる。


しかし、それでも、我々は形と運動の知覚標識について、誤解をしている。我々人間は、形を認識し、それからそれに対して「動き」が付随しているように思い、すべての生物が同じように知覚している、と考えがちだ。しかし、実際にはそうではない。この考え方は動物の環境世界については当てはまらないことが多い。


動物の環境世界においては、静止している形と動いている形とは、二つの全く無関係な知覚標識として存在する場合がある。それどころか、形を伴わない運動そのものが独立の標識として現れることもありうる。


例として、バッタを捉えようとしているコクマルガラスを挙げる。コクマルガラスには、静止しているバッタが全く見えず、バッタが跳ぼうとする際に食いつく習性がある。ここで、以下のように推論される。


コクマルガラスは、静止しているバッタの形を知ってはいるが、草にまぎれてしまって、バッタの形を見分けることができない。バッタが跳ぶ時に、邪魔になっていた草の像から解放されて、コクマルガラスの目に映る。


しかし、さらに多くの知見からすると、これは事実ではない。コクマルガラスは静止しているバッタの姿を全く知らず、ただ動く姿を狙っているのだ。これにより、多くの昆虫のとる「死んだふり」が説明できる。追跡する動物の知覚世界の中には、昆虫の静止した姿が存在していない。そのため、昆虫は「死んだふり」をすることで、その敵の知覚世界から確実に逃れることができる。


私(ユクスキュル)は、ハエの運動に対する知覚世界の実験を行った。一本の竿の先に細い糸でエンドウ豆を吊り下げ、トリモチをつけておいた。ハエの多い場所でこの竿を振って豆を左右に動かす。すると、いつもたくさんのハエがエンドウ豆に突進し、くっついてしまう。くっつくのは全て雄のハエだった。


このことから、振り動かされているエンドウ豆は、雄のハエにとっては、飛翔中の雌のハエの知覚標識と同じように認識されていることがわかる。一方で、静止したエンドウ豆に対しては、雄のハエは全く反応しない。したがって、雄のハエにとっては、静止している雌のハエと、飛んでいる雌のハエとは、二つの異なった知覚標識なのだと結論してもよいだろう。


これとは反対に、形を持たない運動が知覚標識として現れうることを示すのが、イタヤガイだ。


イタヤガイの天敵はヒトデだ。しかし、ヒトデがイタヤガイの環境に存在していても、ヒトデが静止している限り、イタヤガイはなんの反応もしない。ヒトデの形は、貝にとってはなんの知覚標識にもならないのである。一方で、このヒトデが動き出すや否や、貝は嗅覚器官の触手を突き出して、ヒトデから刺激を受ける。すると、貝は泳ぎ去っていく。


様々な実験の結果、イタヤガイにとっては、動いている対象物がどのような色と形をしているのかはまったくどうでもよいという事実が示された。どのような対象物であったとしても、ヒトデと同じ速度ならば、それはイタヤガイの環境世界における知覚標識となる。イタヤガイの目は形や色ではなく、一定の動きのテンポにのみ対応する。そして、そこに嗅覚刺激が加わることにより、より完全な「敵」の知覚標識となる。


ミミズの環境世界には、形に対する知覚標識があるだろうと、長い間考えられてきた。ミミズが、普通の木の葉と松葉を区別して取り扱うためである(ダーウィンにより指摘)。普通の木の葉に対しては、ミミズは葉の先端を掴んで、自分の巣穴に引きずり込む。その形で引っ張ると、葉が丸くなって穴につかえないからだ。一方、松葉は二本ずつ対になって落ちるため、ミミズは葉の基部を持って穴に引きずり込む。このことから、ミミズは葉の形を知覚標識としているに違いないと結論された。


しかし、この仮定は誤りであることが分かった。棒にゼラチンを浸した場合、ミミズは無作為な側から棒を巣穴に引っ張り込む。あるときにはこちら側から、あるときには反対の側から引っ張る。しかし、その棒の一端に、乾燥した桜の葉の先端部分の粉、反対側に桜の葉の軸部分の粉をふっておくと、ミミズはこの棒の両端を区別するようになった。


したがって、ミミズは、樹の葉の形そのものではなく、葉の味によって、形を区別している。このような実例は、自然というものがわれわれ人間にはとても乗り越えられそうもないむずかしい障害をうまくくぐり抜けるすべを、じつによく知っていることを示してくれるものである。


そのため、ミミズが物の形を知覚するという説は、事実無根のものである。では、形をその環境世界の中で知覚標識とする生物はいるのだろうか?


これに対しては、ミツバチが該当することが知られている。ミツバチは開いた形(星形・十字型)に好んで止まり、閉じた形のもの(円や正方形)は避ける、ということが分かっている。


開いた花とつぼみが交錯する野原の環境の中で、ミツバチの環境世界では、花をその形に応じて星形や十字型に変えている。一方で、つぼみは輪のように閉じた形になるだろう。つまり、ミツバチにとっては花だけが意味があり、つぼみは問題にならない。そして、開いた形が生理学的に作用が強いかどうかという問題は、副次的である(環境世界の研究では、意味の関係のみが唯一の確実な道しるべであるため)。


これらの研究によって、形の知覚細胞には二つのグループがあり、ひとつは「開いている」もうひとつは「閉じている」に対応していると仮定できる。


この考えを発展させることで、「知覚像(Merkbild)」という概念が生まれてくる。ミツバチの場合、この知覚像は色と匂いで満たされている。一方、ミミズやイタヤガイ、ダニはその環境世界の中に、純粋な知覚像を全て欠いている。


【こう解釈した】
・ミツバチが、ではなく、一般論として、「知覚細胞のグループには二通りしかない」という風に読めてしまい、いやそれはおかしくないか……?と思うのだけれど、ユクスキュルがそう述べているので、その通りに要約した(p.69)

 

・「知覚像」は、あとの章でも出てくるのだけど、ここではさらっと書きすぎていて、何がなにやら……となってしまった。そして、内容の補足が私には難しく、そのまま書いてしまった。前も書いたけど、先に難しいことを述べておいて、あとで追って説明、みたいなスタイルなんだなユクスキュル……(p.70-71)


【感想】
・「自然というものがわれわれ人間にはとても乗り越えられそうもないむずかしい障害をうまくくぐりぬけるすべを、じつによく知っていることを示してくれるものである」(p.68)好きな表現すぎて、要約できなかった……

 

・「運動」が、必ずしも「形」に付随して認知されているものではないよ、を丁寧に証明しているのは、本当にすごいなあと思う。

 

・そして、やはり気になるのは、このあたりの分野は、今はどのように研究が進んでいるかということ……