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【会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・六章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p.192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)

 

 

第一部

〈六章〉

 

【要約】

われわれ人間は、次々と目的を追っているので、動物も同じように生活しているものと確信している。これは根本的な誤りであって、今日までの研究を間違った方向に導いてきた。

 

ウニやミミズが目的をもっているという人は誰もいない。しかし、ダニの生活について述べた時、「ダニが獲物を待ち伏せる」という表現を用いた。このような言い方で、我々はあたかもダニが人間のような目的をもっているかのような視点を、知らず知らず持ち込んでしまっているのだ。

 

したがって、我々の第一の関心は、環境世界を考察することによって、目的という言葉のもつ幻の光を消そうということである。そして、これは、いろいろな動物の生活現象を、自然の計画(あらかじめ、その生物が自然にそう動くようになっているその道筋)という視点のもとに整理することによってのみ可能なのである。

 

例えば、ガの音感覚についての研究で、それを示すことができる。ガは、コウモリの鳴き声であろうが、ガラス瓶の栓をこすり合わせる音であろうが、ガの聴覚がチューニングされている音に合ってさえいれば、同じ行動をとる。

 

すなわち、明るい色彩で目立つガは、この音を聞くとたちまち逃げ去る。一方で、保護色で守られている種類のガは、同じ音を聞いても近くの物に止まるだけである。この二つの行為のもつ高度な計画性は、実にはっきりしている。

 

ガは、自分の皮膚の色を実際に見たことがないのだから、色を識別しているとか、目的にしたがって行動しているなどといった説は問題にならない。そして、これらのガはこれ以外の音に対しては全く反応しないことを考えると、ガの行動を支配している計画性に対する驚きの念がさらに高まる。

 

目的と計画の対立については、すでにファーブルのすばらしい観察がそれを示している。オオクジャクガのメスを白い紙の上に置くと、メスは腹を紙にこすりつける。そして、メスを紙のそばのガラス瓶に入れた。すると、夜に、オスのガが群をなして、白い紙の上でひしめきあっていた。しかし、それらのオスで、ガラス瓶の中のメスに注意を向けたものはいなかった。

 

同様の現象がキリギリスとコオロギでも見られている。マイクロフォンの前でオスのキリギリスを鳴かせると、隣の部屋に置かれた拡声器の前にメスが集まってくる。同じ部屋に、ガラスをかぶせた(音を聞こえなくした)オスがいても、メスたちはそちらには全く注意を向けない。

 

この二つの実験は「生物は、目的の追求を行っているわけではない」という、同じ事を示している。どちらの場合にも、ひとつの知覚標識によりひとつの機能環が動いたのだ。(しかし、どちらの実験においても、本物のオス・本物のメスが提示されていなかったため、機能環を動かした知覚標識の消去がなされなかった)

 

しかし、こう言う人もいるかもしれない。「確かに、昆虫については、目的的な行動はないかもしれない。けれど、ニワトリのメスがヒヨコを助けに急いで走り寄る姿は、真に目的的な行動だ」

 

ところが、それを覆すような、すばらしい実験が行われ、ニワトリですら目的的な行動ではないことを、疑う余地なく示している。

 

ヒヨコの足を何かにしばりつけると、ヒヨコは大声で鳴き立てる。すると親鳥は、例えヒヨコの姿がみえなくとも、その声を聞き駆けつけ、見えない敵に向かってつきかかる行動をとる。

 

ところが、ヒヨコを、音を遮断するガラスの半球に入れ、母親の目の前においてやる。すると、ヒヨコの姿は見えるが鳴き声は聞こえないため、母鳥はまったく平静だ。

 

ここでもまた、それらのニワトリの行動が、目的的なものではなく、ガやキリギリスやコオロギのような、機能環の連鎖が遮断されたものであることが示されている。

 

ニワトリの母親にとって、ヒヨコのぴいぴいという声は、ひなを攻撃する敵がいるという間接的な知覚標識となる。そのため、ヒヨコがばたばた苦しんでいても、鳴き声を立てていなければ、ニワトリの母親にとっては知覚標識にはならない。

 

また、この知覚標識は、敵を追い払うためにくちばしでつつくという行動によって消去される。親鳥は、縛られたヒヨコの縄をほどくことはできないのだから、この標識の存在は全く不適当だ。

 

さらに奇妙で無益な事例もある。あるめんどりが、白色種のニワトリの卵と一緒に、自分の黒色種の卵をひとつだけかえした。そのめんどりは、我が子であるはずの黒いひなに、実に不合理な態度をとったのだ。黒いひなの鳴き声を聞き、かけつけた母鳥は、白いひなばかりの中に一羽しかいない黒いひなに突きかかった。

 

黒いひなという対象物の発する聴覚的な知覚標識と視覚的な知覚標識によるもので、この二つの機能環は母鳥の中で対立しており、統合されることはなかったのだろう。

 

 

【こう解釈した】

・「自然の計画」が、私には分かりづらく……「その生物が自然にそう動くようになっている道筋」ぐらいの意で訳した。

 

【感想】

・いや難しかった……

 

・人間もまた「自然の計画」に則って動いている、とか、その辺の話はどのようになっているのだろうか。人間だけは別と考えている?