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【会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・六章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p.192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)

 

 

第一部

〈六章〉

 

【要約】

われわれ人間は、次々と目的を追っているので、動物も同じように生活しているものと確信している。これは根本的な誤りであって、今日までの研究を間違った方向に導いてきた。

 

ウニやミミズが目的をもっているという人は誰もいない。しかし、ダニの生活について述べた時、「ダニが獲物を待ち伏せる」という表現を用いた。このような言い方で、我々はあたかもダニが人間のような目的をもっているかのような視点を、知らず知らず持ち込んでしまっているのだ。

 

したがって、我々の第一の関心は、環境世界を考察することによって、目的という言葉のもつ幻の光を消そうということである。そして、これは、いろいろな動物の生活現象を、自然の計画(あらかじめ、その生物が自然にそう動くようになっているその道筋)という視点のもとに整理することによってのみ可能なのである。

 

例えば、ガの音感覚についての研究で、それを示すことができる。ガは、コウモリの鳴き声であろうが、ガラス瓶の栓をこすり合わせる音であろうが、ガの聴覚がチューニングされている音に合ってさえいれば、同じ行動をとる。

 

すなわち、明るい色彩で目立つガは、この音を聞くとたちまち逃げ去る。一方で、保護色で守られている種類のガは、同じ音を聞いても近くの物に止まるだけである。この二つの行為のもつ高度な計画性は、実にはっきりしている。

 

ガは、自分の皮膚の色を実際に見たことがないのだから、色を識別しているとか、目的にしたがって行動しているなどといった説は問題にならない。そして、これらのガはこれ以外の音に対しては全く反応しないことを考えると、ガの行動を支配している計画性に対する驚きの念がさらに高まる。

 

目的と計画の対立については、すでにファーブルのすばらしい観察がそれを示している。オオクジャクガのメスを白い紙の上に置くと、メスは腹を紙にこすりつける。そして、メスを紙のそばのガラス瓶に入れた。すると、夜に、オスのガが群をなして、白い紙の上でひしめきあっていた。しかし、それらのオスで、ガラス瓶の中のメスに注意を向けたものはいなかった。

 

同様の現象がキリギリスとコオロギでも見られている。マイクロフォンの前でオスのキリギリスを鳴かせると、隣の部屋に置かれた拡声器の前にメスが集まってくる。同じ部屋に、ガラスをかぶせた(音を聞こえなくした)オスがいても、メスたちはそちらには全く注意を向けない。

 

この二つの実験は「生物は、目的の追求を行っているわけではない」という、同じ事を示している。どちらの場合にも、ひとつの知覚標識によりひとつの機能環が動いたのだ。(しかし、どちらの実験においても、本物のオス・本物のメスが提示されていなかったため、機能環を動かした知覚標識の消去がなされなかった)

 

しかし、こう言う人もいるかもしれない。「確かに、昆虫については、目的的な行動はないかもしれない。けれど、ニワトリのメスがヒヨコを助けに急いで走り寄る姿は、真に目的的な行動だ」

 

ところが、それを覆すような、すばらしい実験が行われ、ニワトリですら目的的な行動ではないことを、疑う余地なく示している。

 

ヒヨコの足を何かにしばりつけると、ヒヨコは大声で鳴き立てる。すると親鳥は、例えヒヨコの姿がみえなくとも、その声を聞き駆けつけ、見えない敵に向かってつきかかる行動をとる。

 

ところが、ヒヨコを、音を遮断するガラスの半球に入れ、母親の目の前においてやる。すると、ヒヨコの姿は見えるが鳴き声は聞こえないため、母鳥はまったく平静だ。

 

ここでもまた、それらのニワトリの行動が、目的的なものではなく、ガやキリギリスやコオロギのような、機能環の連鎖が遮断されたものであることが示されている。

 

ニワトリの母親にとって、ヒヨコのぴいぴいという声は、ひなを攻撃する敵がいるという間接的な知覚標識となる。そのため、ヒヨコがばたばた苦しんでいても、鳴き声を立てていなければ、ニワトリの母親にとっては知覚標識にはならない。

 

また、この知覚標識は、敵を追い払うためにくちばしでつつくという行動によって消去される。親鳥は、縛られたヒヨコの縄をほどくことはできないのだから、この標識の存在は全く不適当だ。

 

さらに奇妙で無益な事例もある。あるめんどりが、白色種のニワトリの卵と一緒に、自分の黒色種の卵をひとつだけかえした。そのめんどりは、我が子であるはずの黒いひなに、実に不合理な態度をとったのだ。黒いひなの鳴き声を聞き、かけつけた母鳥は、白いひなばかりの中に一羽しかいない黒いひなに突きかかった。

 

黒いひなという対象物の発する聴覚的な知覚標識と視覚的な知覚標識によるもので、この二つの機能環は母鳥の中で対立しており、統合されることはなかったのだろう。

 

 

【こう解釈した】

・「自然の計画」が、私には分かりづらく……「その生物が自然にそう動くようになっている道筋」ぐらいの意で訳した。

 

【感想】

・いや難しかった……

 

・人間もまた「自然の計画」に則って動いている、とか、その辺の話はどのようになっているのだろうか。人間だけは別と考えている?

【会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・五章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p.192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)


第一部
〈五章〉


【要約】
前述のように、ウニの環境世界では、反射個体のひとつひとつに場所の標識があると想定されるため、これらが統合される可能性はない。したがって、多くの場所をまとめることを必要とする、形と運動の知覚標識は、ウニの世界では必然的に欠けている。形と運動は、もっと高等な知覚世界においてはじめて現れる。


しかし、それでも、我々は形と運動の知覚標識について、誤解をしている。我々人間は、形を認識し、それからそれに対して「動き」が付随しているように思い、すべての生物が同じように知覚している、と考えがちだ。しかし、実際にはそうではない。この考え方は動物の環境世界については当てはまらないことが多い。


動物の環境世界においては、静止している形と動いている形とは、二つの全く無関係な知覚標識として存在する場合がある。それどころか、形を伴わない運動そのものが独立の標識として現れることもありうる。


例として、バッタを捉えようとしているコクマルガラスを挙げる。コクマルガラスには、静止しているバッタが全く見えず、バッタが跳ぼうとする際に食いつく習性がある。ここで、以下のように推論される。


コクマルガラスは、静止しているバッタの形を知ってはいるが、草にまぎれてしまって、バッタの形を見分けることができない。バッタが跳ぶ時に、邪魔になっていた草の像から解放されて、コクマルガラスの目に映る。


しかし、さらに多くの知見からすると、これは事実ではない。コクマルガラスは静止しているバッタの姿を全く知らず、ただ動く姿を狙っているのだ。これにより、多くの昆虫のとる「死んだふり」が説明できる。追跡する動物の知覚世界の中には、昆虫の静止した姿が存在していない。そのため、昆虫は「死んだふり」をすることで、その敵の知覚世界から確実に逃れることができる。


私(ユクスキュル)は、ハエの運動に対する知覚世界の実験を行った。一本の竿の先に細い糸でエンドウ豆を吊り下げ、トリモチをつけておいた。ハエの多い場所でこの竿を振って豆を左右に動かす。すると、いつもたくさんのハエがエンドウ豆に突進し、くっついてしまう。くっつくのは全て雄のハエだった。


このことから、振り動かされているエンドウ豆は、雄のハエにとっては、飛翔中の雌のハエの知覚標識と同じように認識されていることがわかる。一方で、静止したエンドウ豆に対しては、雄のハエは全く反応しない。したがって、雄のハエにとっては、静止している雌のハエと、飛んでいる雌のハエとは、二つの異なった知覚標識なのだと結論してもよいだろう。


これとは反対に、形を持たない運動が知覚標識として現れうることを示すのが、イタヤガイだ。


イタヤガイの天敵はヒトデだ。しかし、ヒトデがイタヤガイの環境に存在していても、ヒトデが静止している限り、イタヤガイはなんの反応もしない。ヒトデの形は、貝にとってはなんの知覚標識にもならないのである。一方で、このヒトデが動き出すや否や、貝は嗅覚器官の触手を突き出して、ヒトデから刺激を受ける。すると、貝は泳ぎ去っていく。


様々な実験の結果、イタヤガイにとっては、動いている対象物がどのような色と形をしているのかはまったくどうでもよいという事実が示された。どのような対象物であったとしても、ヒトデと同じ速度ならば、それはイタヤガイの環境世界における知覚標識となる。イタヤガイの目は形や色ではなく、一定の動きのテンポにのみ対応する。そして、そこに嗅覚刺激が加わることにより、より完全な「敵」の知覚標識となる。


ミミズの環境世界には、形に対する知覚標識があるだろうと、長い間考えられてきた。ミミズが、普通の木の葉と松葉を区別して取り扱うためである(ダーウィンにより指摘)。普通の木の葉に対しては、ミミズは葉の先端を掴んで、自分の巣穴に引きずり込む。その形で引っ張ると、葉が丸くなって穴につかえないからだ。一方、松葉は二本ずつ対になって落ちるため、ミミズは葉の基部を持って穴に引きずり込む。このことから、ミミズは葉の形を知覚標識としているに違いないと結論された。


しかし、この仮定は誤りであることが分かった。棒にゼラチンを浸した場合、ミミズは無作為な側から棒を巣穴に引っ張り込む。あるときにはこちら側から、あるときには反対の側から引っ張る。しかし、その棒の一端に、乾燥した桜の葉の先端部分の粉、反対側に桜の葉の軸部分の粉をふっておくと、ミミズはこの棒の両端を区別するようになった。


したがって、ミミズは、樹の葉の形そのものではなく、葉の味によって、形を区別している。このような実例は、自然というものがわれわれ人間にはとても乗り越えられそうもないむずかしい障害をうまくくぐり抜けるすべを、じつによく知っていることを示してくれるものである。


そのため、ミミズが物の形を知覚するという説は、事実無根のものである。では、形をその環境世界の中で知覚標識とする生物はいるのだろうか?


これに対しては、ミツバチが該当することが知られている。ミツバチは開いた形(星形・十字型)に好んで止まり、閉じた形のもの(円や正方形)は避ける、ということが分かっている。


開いた花とつぼみが交錯する野原の環境の中で、ミツバチの環境世界では、花をその形に応じて星形や十字型に変えている。一方で、つぼみは輪のように閉じた形になるだろう。つまり、ミツバチにとっては花だけが意味があり、つぼみは問題にならない。そして、開いた形が生理学的に作用が強いかどうかという問題は、副次的である(環境世界の研究では、意味の関係のみが唯一の確実な道しるべであるため)。


これらの研究によって、形の知覚細胞には二つのグループがあり、ひとつは「開いている」もうひとつは「閉じている」に対応していると仮定できる。


この考えを発展させることで、「知覚像(Merkbild)」という概念が生まれてくる。ミツバチの場合、この知覚像は色と匂いで満たされている。一方、ミミズやイタヤガイ、ダニはその環境世界の中に、純粋な知覚像を全て欠いている。


【こう解釈した】
・ミツバチが、ではなく、一般論として、「知覚細胞のグループには二通りしかない」という風に読めてしまい、いやそれはおかしくないか……?と思うのだけれど、ユクスキュルがそう述べているので、その通りに要約した(p.69)

 

・「知覚像」は、あとの章でも出てくるのだけど、ここではさらっと書きすぎていて、何がなにやら……となってしまった。そして、内容の補足が私には難しく、そのまま書いてしまった。前も書いたけど、先に難しいことを述べておいて、あとで追って説明、みたいなスタイルなんだなユクスキュル……(p.70-71)


【感想】
・「自然というものがわれわれ人間にはとても乗り越えられそうもないむずかしい障害をうまくくぐりぬけるすべを、じつによく知っていることを示してくれるものである」(p.68)好きな表現すぎて、要約できなかった……

 

・「運動」が、必ずしも「形」に付随して認知されているものではないよ、を丁寧に証明しているのは、本当にすごいなあと思う。

 

・そして、やはり気になるのは、このあたりの分野は、今はどのように研究が進んでいるかということ……

【会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・四章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p.192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)

 

第一部


〈四章〉簡単な環境世界


【要約】
たったひとつの知覚標識しかもたないような、非常に単純な環境世界では、空間と時間は意味をもたない。そもそも、空間と時間は数多くの知覚標識の区別にとって役に立つものであり、主体に対して直接的な利益はもたらさない。


例えば、ゾウリムシ(Paramaecium)においては、その環境世界では、常に同一の知覚標識だけしか取り上げない(その環境にはじつに様々なものが存在するにも関わらず)。


ゾウリムシに何らかの刺激を与えると、ゾウリムシは逃避運動をおこす。後方へ退き、向きを変えて、さらに前進運動をはじめることで、障害物から遠ざかる。


この一連の動きにより、「物にぶつかった」という知覚標識は消去される。これはぶつかったものがどのようなものであれ、同一の知覚標識であり、常に同一の作用標識によって消去されているといえる。


唯一、ゾウリムシに刺激を与えないのは、餌である腐敗バクテリアだ。腐敗バクテリアにぶつかると、ゾウリムシは静止する。


この事実は、自然はただひとつの機能環を用いて、生命をいかに目的的に作り上げることができるかを示す。

 


多細胞の動物でも、ただひとつの機能環で生きているものがいる。根口クラゲ(Rhizostcma)は、一種の泳ぐポンプのような形状で成っている。


細かいプランクトンを体全体で取り入れ、プランクトンを濾しとったあと、水だけを同じ口から吐き出す。この時、水を吐き出す動きにより、クラゲは前進する。


同時に、水中にある酸素を取り入れ、全身に巡らすることもできる。根口クラゲはたったひとつの動作で、3つの重要な機能を果たすことができる。


これは、クラゲの傘のふちにある器官(鐘のような形をしている)が、振動のたびごとに神経節を打ち、指令を出し続けていることによって起こっている。


根口クラゲはこの自己刺激→運動→自己刺激を、無限に繰り返している。そして、根口クラゲの環境世界においては、他の刺激は一切遮断されている。


すなわち、根口クラゲの環境世界には、生命のリズムを支配するいつも変わりない鐘の音が響いている。

 


根口クラゲのような、機能環がただひとつしかない場合には、反射動物といってもいいだろう。


他のクラゲでも、反射動物と呼んで差し支えないものがいる。このような動物は、反射弓が独立に活動し、中枢位からは何らの指図も受けていない。


このような、外部の器官が完全な反射弓を有している場合は、それを「反射個体(Reflexperson)」と呼ぶ。

 


ウニは、このような反射個体をたくさん備えて、全身に分布させている。そして、中枢からの指令なしに、おのおのが独自に反射機能を遂行する。


ウニはたくさんのトゲを持っており、皮膚に刺激を与える対象が近づくと、このトゲを立てる。このトゲの他に、柔らかく長い吸盤状の足(管足)があり、物をよじ登る時に使う。また、多くのウニは四種類のはさみ状のトゲ(叉棘)をもっている。これら全てが全く独立した反射個体である。


独立して動いているとはいえ、ウニの身体では、柔らかな管足が、鋭い叉棘に襲われる、ということは起こらない。したがって、これを「反射共和国(Reflexrepublik)」という名で呼ぶことができる。


この町の平和は、中枢位からの指令によるものではない。それは、アウトデルミン(Autodermin)(皮膚自己物質)という物質の存在により保たれる。


アウトデルミンは皮膚一面にごく低濃度に存在している。アウトデルミンは、濃度が高くなると反射個体の受容器を麻痺させる。このことから、同一主体の二つの皮膚面が接触することにより、アウトデルミンの濃度が高まり、反射が起きることを抑制する。


多数の反射個体をもつ反射共和国の場合は、機能環がバラバラに働くことから、これらの知覚標識は相互に無関係である。

 


一方で、比較としてダニを考える。前述のように、ダニの生命表現は、本質的に3つの反射から成り立っている。しかし、機能環に共通の知覚器官があることから、一つの統一体を作り上げている可能性がある。

 


このような可能性はウニにはない。圧迫刺激と知覚標識は完全に独立している。そのため、ウニは影に対してトゲを動かして反応する際、雲にも船にも、本当の敵である魚に対しても行う。

 

 


【感想】
・やっぱりユクスキュルはすごい……このあたりの分野は、神経生理学?とか、そのあたりの話なんじゃないだろうか。本当に(今で言うところの)広い分野の話を考えているんだなあ……。「生き物をとらえる・理解する」って、こういうことなのかな……。


・根口クラゲの最終文、要約できなかった!そのままもってきてしまった!あまりに素敵な表現だったので!「鐘の音だけが鳴り響く永遠の静寂」って……すごく……すごくイメージを喚起させる!


・この分野、今はどういう知見が得られているのかなー。

 

【会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・三章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)

 

第一部


〈三章〉知覚時間
 
【要約】
カール・エルンスト・フォン・ベーアは、時間は主体が生み出したものと説明した。時間は、最小単位である「瞬間」が連続することで成立する。そのため、主体が、どのくらいの長さの時間を「瞬間」として捉えるかにより、時間は異なる(逆に言えば、時間の区切り・時間の途切れ目として感じてしまう長さは、生物により違う)。すなわち、環境世界ごとに時間は異なっている。


 
人間では、瞬間の長さは1秒の1/18である。例えば、1秒間に18回以上の空気振動は、単一の音となってしまうし、1秒間に18回以上皮膚をつつくと一様な圧迫として感知される。映画も、1秒の1/18の速さでコマが送られることで連続した映像になっている。


 
人間の目で捉えられないような、素早い動物の行動を可視化しようとするときは、ツァイトルーペを用いる。ツァイトルーペとは、一秒間内に多くの映像を撮影し、これを通常の速度で映写するやり方である。運動の過程をゆっくりとした流れに引き伸ばすことで、人間の時間のテンポ(1秒に1/18)よりも早い現象を観察することができる。逆に、ツァイトトラッファー(低速度映画)は、われわれのテンポにとってはのろすぎる現象を可視化することができる。
 


では、我々と異なる知覚時間をもち、その環境世界での時間経過が人間と異なるような動物はいるのだろうか。

 
ドイツの若い研究家が、この方面に先鞭をつけ、トウギョの研究を行っている。その結果、トウギョは少なくとも1秒間に30回(1/30)のコマ送りではないと動いているとは認識できないことがわかった。また、別の研究者による実験では、最高速度の検証が行われた。トウギョにとっては「1/50」秒を超えた動きだと、連続した動きとして見えることが示された。したがって、活動の敏捷な獲物を食べているこれらの魚では、すべての運動がその環境世界内ではスローモーションのようなゆっくりとしたテンポで現れる。

 
また、逆に、カタツムリの実験からは、カタツムリの知覚時間が一秒間に三から四の時間のテンポで流れていることが示されている。つまり、カタツムリの環境世界では、すべての運動は人間の環境世界におけるよりもずっと早い。すなわち、カタツムリの主観的には、自身の運動はのろくないと感じているだろう。
 
 
【感想】
・時間を主体による微分……微分的な考え方?で捉えている、という理解でいいのかしら?

 

・そういえば、格ゲー大好きな友達が、秒?を分割した単位を「フレーム」とか表現していたような……「この技の発生は〇フレームで、それは人間の認知ギリギリだから、まず返せない、だから……」とかいろいろ教えてくれていたのだけれど、私は全く分からず「人間の時間認知ってすごいなー。反射速度も、訓練でそこまで上げられるんだー」ぐらいのことしか理解できなかったので、大変申し訳なく、また、勿体ないことをしたなーとしみじみ思っている……
 

【会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・第二章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、一人会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、一人会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)

 

第一部

 〈二章〉最遠平面

前章で述べた視覚空間については(眼で見える範囲に制限があることから)不透明な壁に取り囲まれていると言える。この壁のことを本書では地平面(Horizont)または最遠平面(die fernste Ebene)と呼ぶ。

 

太陽・月・星は、奥行きの違いなく、最遠平面の上にある。最遠平面が可変的であることは、筆者(ユクスキュル)自身が体験している。筆者が重いチフスから回復した時は、眼前20メートルに最遠平面が存在していた。

 

我々の眼のレンズは、カメラのレンズと同様の働きをしている。すなわち、カメラのレンズが感光板に対象物を映し出すのと同様に、眼のレンズは網膜に像を映し出す。眼のレンズの曲率は、筋肉の作用によって変わる。眼のレンズの筋肉の収縮・弛緩により、見える遠近が変わってくる。

 

乳児の最遠平面は、10メートルの範囲で留まっている。成長にともなって最遠平面は遠くなっていき、成長後の視覚空間は6~8キロメートルが最遠平面となっている。そのため、大人と子どもの視覚空間には差異がある。

 

ヘルムホルツの体験によれば、ヘルムホルツが少年の時、ポツダムの工事中の教会の前を母親と通り過ぎようとした。すると、彼は、教会で作業している人々がいることに気がつき、母親に「あの小さな人形をとってちょうだい」と頼んだ。彼にとって、最遠平面にある教会や人間たちは人形のように小さく見え、遠いことがわからなかった。そのため、母親ならばその長い手で人形をとれるだろう、と思ったのだ。母親の環境世界では、小さな人間ではなく遠く離れた人間がいる、ということが、彼にはわからなかったのだ。

 

様々な動物の環境世界の、最遠平面の位置を解明するのは難しい。主体に近づいてくる物体が、どの地点から近づいてくるように見えるのかを、実験的に確認するのが困難だからである。イエバエの実験では、人間の手が50センチに近づくところで飛び立つことから、最遠平面はおそらくそのぐらいの距離だと推定される。

 

最遠平面はすべての生物に存在している。たとえば草原に存在している昆虫の一匹一匹が、それぞれ一つのシャボン玉のようなもので取り囲まれている、といえる。そして、生物それぞれが、そのシャボン玉の中のもの、すなわち視覚空間の中のものしか見ることができないのだ。それは、ぐるぐる飛び回っている鳥、枝から枝へととびはねているリス、牧場で草を食べているウシ、であっても変わらない。

 

この事実から、我々人間の世界もまた同様に、我々ひとりひとりがシャボン玉に取り囲まれていることがわかる。このことから、空間の想定に対しては、すべてを包括する宇宙、のような空間はまやかしであり、常に、主体と関連した個々の空間のみが存在している、といえる。

 

【感想】

 ・序章で、生理学が生物機械論的な立場にあることから、筆者(ユクスキュル)は生理学に対しては、やや批判的な立場にあるのかな?と思っていたけれど、「それはそれ!」としているのか、このあたりはかなり生理学的な目線で書いているように思う……。これはすごいことだと思うし、柔軟だなーとも思う。

 

・私には、ユクスキュルのこの視点の多さがとても魅力的だなーと思う。哲学・物理学・動物行動学・生態学生理学を縦横無尽に繰り出してくる感じで……いや、まあ、だからこそ、それがために私にとっては読みにくいのは否めない…

 

・ところで、このあたりで例示されている話などは、現代ではどのくらい更新されているのだろうか……詳しい方に聞いてみたい。

 

・とりあえず、トンボの採餌のサイズとその距離についての論文は、大~~~昔に読んだことがあるぞーと思って記憶をがさごそひっくり返して探してみたら、多分これ!というものが見つかった!ありがとうGoogle scalar!

 

タイトル:Prey size selection and distance estimation in foraging adult dragonflies.

 

https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=odonata+foraging+size+selectivity&oq=odonata+foraging+size+s#d=gs_qabs&u=%23p%3DA4ePxwdUmz4J

 

トンボが補食する餌のサイズに選好性があること、さらにユクスキュル言うところの「最遠平面」が大型の種で1m、小型の種で70㎝と推定されたこと……これは……ユクスキュルがご存命だったならば、めちゃくちゃ喜んでくれそうな論文だと思う…!

 

・シャボン玉の比喩はすごく詩的で素敵だな……こういうのがたまに差し挟まれるのが、ほんとにいいところだと思う……。あんまりにも多すぎると、ちょっと個人的には苦手意識が強くなるけど、このぐらいが程よくて好きだな……。

 

・そしてカントが「人はそれぞれ、個別の感覚の中に閉じ込められている」的なことを言っていたのを下敷きにしたのが、このシャボン玉の話のことなんだろうな……と思った。(一方でカントは「だがしかし、人は『理性』により、その個々の状態を脱する事ができる。理性が人をつなぎ、連携させるのだ」的なことを書いていた……ちょっとここの辺は、あとできちんと引用をする……)

 
 

【(一人)会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・第一章】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、一人会読を進めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、一人会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。

(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)

 

第一部
〈一章〉環境世界の諸空間

【要約】
これから我々が研究しようとしている、生物の環境世界(Umwelt)は、一般的に言われる「環境(Umgebung)」と異なるものである。環境世界は、環境の中の一要素である。

例えば前章で述べたように、ダニは哺乳類の皮膚の発する酪酸の匂いを知覚標識として、吸血行動を始める。周囲のあらゆる事物(環境)の中から、酪酸の匂いだけをダニは選び抜いて手がかりとしている(それは食通が菓子を食べた時に、干しぶどうの味だけ選り抜くのに似ている)。この場合、我々は「ダニが一体、主観として、どのように酪酸を捉えているのか」は問題にしない。ダニには酪酸を知覚するための、いくつもの知覚細胞が存在するに違いない、という事実のみを我々は扱う。

観察対象となる生物に刺激を与える、いくつもの知覚標識は、空間的・時間的な連続性をもって存在している。(そうでないと、生物の行動が次々に解発されていかないから)

生物ごとがそれぞれ固有の世界をもっているにもかかわらず、我々は「あらゆる生物が、たった一つの世界を見ている・利用している」という誤った信念を持ちがちである。そこから「すべての生物は、我々と同じ空間・時間しかないはずだ」という誤った確信が生まれてくる。最近、物理学者たちは「宇宙は一様の空間ではないのでは」という疑いを持ち始めつつある。その説は、以下で説明する三つの空間に我々が生きているという事実によって補強される。

(a)作用空間
本書では、人間が手足を伸ばして自由に動かせる範囲、我々の運動が可能な範囲の空間を「作用空間(Wirkraum)」と名づける。作用空間の測定の最小単位には、2cmを用いる。最小単位には方向があり、上下左右前後の6通りに区別される。

これらの方向は、人間の頭を中心とした、3つの平面が直角に交差する座標系を用いることにより決定される。この、我々の空間の三次元性は、内耳の感覚器官である三半規管に由来している。また、多くの実験から、三半規管をもつ全ての動物は、我々と同様に三次元の作用空間を持っている、という事実が証明されている。

魚にも三半規管は存在しており、これにより空間の三次元的な把握を行っている。魚の三半規管は、同時に、巣穴を指し示すコンパスのような役割を担っている、と考えられる。動物が、自分のすみかの入り口の場所が変わってしまったとしても、きちんと新たな入り口に辿り着けるのは、こういったコンパスが存在するためである、と考えられる。

三半規管をもたない昆虫や軟体動物でも、作用空間の中で入口を見いだす能力がある。

大量のミツバチが巣から出た後に、巣を2メートル横にずらすと、帰ってくる元の巣のあった入口付近の空中に集まる。一方で、触角を取り除いたミツバチは、帰るときに新しい巣箱の入口に入っていく。このことから、ミツバチは作用空間内で定位をする場合には、視覚ではなく触角を用いていると考えられる。すなわち、ミツバチの触角は、巣の入り口に対してコンパスの役割を果たしていると考えられる。

ヨメカガサの仲間の貝(Patella)は、ミツバチと同様に自分の巣を見いだす。この行動をイギリス人は「帰巣」と呼ぶが、この貝の帰巣のメカニズムは不明であり、不思議である。この貝は潮間帯の岩の上に生息し、干潮時には自分の殻で岩に穴を穿った巣の中で生活している。満潮になると、海草を食べるために巣を離れて歩き回り、再び干潮になると巣に戻る。しかし、巣に戻るときは必ずしも同じ道筋で帰るわけではない。それにもかかわらず、この貝はきちんと自分の巣に戻ってくる。この貝の視覚・嗅覚標識はほとんどないと考えられることから、この貝は作用空間でのコンパスを持っていると推定される。しかし、一体それが具体的に何なのか、は想定ができない。

(b)触覚空間
触覚空間(Tastraum)は、作用空間のような方向を持った最小単位の大きさではなく、固定された「場所」に基づくことで主体に認知される。例えば、コンパスの足を大きく開き、被験者の首筋につけると、これは被験者からは「2点」として感じられる。しかし、そのまま背中から下に降ろしていくと、そのうち被験者は2点を1点として感じるようになる。このことから、ヒトは二つの知覚信号を感知している、と考えられる。一つは触覚の知覚信号、もう一つは場所感覚の知覚信号(局所信号)である。

ある接触に対して、同一の局所信号をもたらす皮膚領域の面積は、その部位で触覚が大事かどうかにより異なっている。もっとも面積が小さいのは舌先と指先であり、すなわちもっとも多くの場所を区別できる。

場所と、方向を持った最小単位を組み合わせることにより、ものに触れたときの形が分かる。ネズミやネコ、夜行性の動物や洞窟に住む動物は、触覚空間を利用して生活している。

(c)視覚空間
ダニは眼を持たず、光を感じる皮膚を持つ。そのため、ダニは光の刺激に対して、触覚刺激と同様に皮膚領域で感知すると予想される。すなわち、ダニの環境世界においては、視覚的場所と触覚的場所は一致している。

眼のある動物では、視覚空間(Sehraum)と触覚空間が明確に分離している。眼の網膜には視覚のエレメントが密に並んで存在し、各エレメントに一個ずつ局所信号が対応している。それぞれの視覚エレメントには、環境世界の一つ一つの場所が対応している。

例として昆虫を挙げると、昆虫は眼が球状となっている。そのため、一つずつの視覚エレメントに対し、外界の遠い場所はより広い面積として視覚エレメントの知覚の対象となる。そうなると、物体と昆虫の間の距離が遠ざかれば遠ざかるにつれて、より広い部分を一つの視覚エレメントで担うことになる。その結果、物体は眼から遠ざかれば遠ざかるほど小さくなり、ついには場所の中に消えてしまう。

触覚空間では、対象物の大きさが変わることはない。そのため、視覚空間と触覚空間の認知は対立構造となっている。例えばヒトが茶碗を引き寄せる時、ヒトの視覚空間ではこの茶碗が近づくにつれて大きくなる。一方で、触覚空間の大きさに変化はない。この場合、ヒトの認知は触覚空間が優位となる。実際に、外から第三者視点で眺めている際には、茶碗の大きさは全く変わらない。

眼は、環境世界の全ての事物の上に、精密なモザイクを広げる。このモザイクの精密さは、視覚エレメントの数により決まる。異なる種間では、視覚エレメントの数が異なるため、このモザイクの粒度にも相違があると想定される。おそらく、イエバエの眼が見ていると想定される環境世界では、細部がほとんど失われている(そのため、イエバエの眼からはクモの糸が見えない。逆に言えば、クモは獲物の眼に絶対に見えない網を張れる)。巻貝や二枚貝の視覚空間には、いくつかの明暗の平面があるのみだ。

視覚空間においても、触覚空間と同様に、方向の最小単位を用いて場所と場所を結びつける。拡大鏡を使う時、拡大鏡下で操作を行うと、それに合わせて手の動きもとても小さくなることが知られている。

【こう解釈した】
・「歩度」は、ちょっと調べたのだけど「最小単位」として意訳させてもらった…(P28)

【感想】
・あんまり「物理学」と「生物学」を直結させすぎるのはどうなんかな……大丈夫なんかな……その辺の感覚はわからない……(P28)

・魚の三半規管が、巣穴の「戸口」を指し示すコンパス、というのは、今は違うのではないか、という話になってそうな気がする……化学物質的なものがありそうな気がして……どうなんだろ。その辺りの論文とかないかな、とちょっと調べたのだけれど、上手く探せなかった。またチャレンジする!(P31)

・ヨメカガサ(貝)の帰巣も謎……どういうメカニズムなのか……やはりこちらも化学物質……ではなさそうだしなあ(潮で洗い流されそう)……現在では分かってたりするんだろうか……(P34)

・動物の行動などの要因を考えるときに、思いもよらないものがその解発の手がかりになっているかもしれない、ということは、常に頭の片隅に入れておかねばならないのかもしれない。渡り鳥や哺乳類の一部が磁気を感知しているとか……(https://wired.jp/2016/02/26/magnetic-field-perception-dog-eyes/ )
ただ、ここであまり思いっきりアクセルを踏みすぎると、トンデモな明後日の方向にエウレーカ!してしまいそうなので、せめて「人間の感覚や想定を延長しただけでは、認知できないもの、測定からこぼれてしまうものがあるかもしれない」ぐらいで止めておくのがいいのかもしれない……わりとこの辺の匙加減は難しい気がする……

・空間、と言ったときに、すかざず3つの区分を提示できるのはすごいな、と思う……自分でこういうの考えているときも、わりとごちゃごちゃになりがちだな……

 

 

【(一人)会読・読書ノート】生物から見た世界/ヤーコブ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリサート(著).日高敏隆,野田保之(訳)/思索社【第一部・序論】

はじめに

この本(生物から見た世界/ユクスキュル)は、大変素晴らしい本だと思うのですが、私の力が及ばず、現状、私はきちんとした深い読みができていません。理解を深めるために、一人会読を始めていこうと思います。「インターネットを使えるなら、一人会読の要約(レジュメ)はぜひともネット上に公開すべきだ(独学大全・p192)」の言葉に基いて、こちらにアップしていきます。ご示唆・ツッコミは大歓迎です。

(後半のあたりは、素のテンションになっており、大変お見苦しいかとは思いますが、ちょっとこう……自分としても「きちんとした形に書き直す」のが難しいので、このまま行かせていただきます……すみません……)

(レジュメ作成には、昭和48年6月30日に思索社から発行された版を用いています。現在岩波文庫から出ている新版とは、ページ数や訳語が異なる、第二部やアドルフ・ポルトマンによる解説が存在する、等の差異があります)

 

 

第一部
〈序論〉
【要約】
生物が主体をもつのか、それとも客体でしかないのかは、重要な問題である。生理学者は、あらゆる生き物は主体を持たない物体でしかなく、ただただ器官がそのように反応し、反射しているにすぎないと見なしている。一方で、生物学者は、生物に主体は「ある」と見ている。生物の活動には「刺激」の受け手であり、それを統括する「主体」が存在すると考えている。

筆者(ユクスキュル)は、後者に与する立場として、本書を書いている。筆者はさらに、細胞の一つ一つに主体があり、動物全体の主体を形成している、と推察している(※このあたりから、生物の中の動物を対象として話が進んでいく)。この章では、ダニを例として、動物の主体としてのふるまい、知覚と作用について説明している。

ダニは、その生息地に哺乳類が通りがかると、吸血を行う。この時ダニは、環境にある他の要素のいっさいを無視して、ただ哺乳類の皮膚の発する、酪酸の匂いだけを手がかりに吸血行動を行っている。この場合、酪酸の化学的な刺激が重要なのではない。「哺乳類の皮膚が発している、何百という手がかりの中から、ただそれだけをダニが選び出している」ということが重要なのである。そして、また同時に「なぜ『酪酸』だけが重要で、他のものはそうでないのか」という問いも生まれる。

ダニの環境世界を考えると、豊かな世界の中から、乏しい知覚標識しか存在していない、みすぼらしい世界のように思える。しかし、この単純さこそが、行動の確実性を保障している。生物(動物)のこの行動の確実性の方が、多様で多彩な世界を知覚することより、生存においてははるかに重要である。

また、ダニは、さらに重要な知見を我々にもたらしてくれる。ダニはその摂食のスタイルから、哺乳類が通りがからない時期も生き続ける構造になっている。すなわち、長期間絶食していたとしても、生命を維持できるような身体のつくりになっている。実際に、ロストックの動物学研究室には、絶食して18年になるダニが存在している。

時間が「経った」という感覚が「変化」を知覚することによって起こることから、このダニにとっては18年間世界は静止し続けており、次に酪酸の刺激が生じた瞬間から時間が動きはじめると考えられる。したがって、ダニの主観としては、この18年はおそらく「一瞬」となる。

これまでは、客観的な軸としての「時間」が存在しており、時間がないと生物も存在しえない、と考えられてきた。しかし、上記の結果からは、むしろ生物が観測しないと「時間」は存在しないのだ、ということができる。これは、空間についても同じことが言える、と筆者は考えている(空間についての論は、次章以降で展開する)。生命がなければ空間も時間も存在しない、ということから、生物学はカントの学説と結びついているといえる。

【こう解釈した】

・「主体」と「客体」について

本文中に何度も繰り返して出てくる単語ではあるけれど、何を表しているのかが今ひとつ掴みかねている。文意からすると、「主体」の表すところは、おそらく「意志」「魂」「知性」などではない。「意識」が、近そうでありながら、思いっきり的が外れているような印象。「統御機構(の中枢)」みたいな感じなんかな…なにか、こう、あまり、「主観」とかが乗っていない、生命活動を統御しているニュートラルな働きそのものを指している概念に思える。「客体」はさらにわからない。客体=機械でいいのか?

・(知覚/作用)「標識」について

知覚、作用はそれぞれ意味が分かるのだが、「標識」がきちんと分かっていない。本文P18で唐突に「知覚標識」が出てくる。レセプターみたいなものを想定すればいいのか?でもそうなってくると、P19の「こうしてこれらの筋肉によって作用をはじめた実行器は、主体の外に置かれた客体にその『作用標識(Wirkmal)』を刻みつけるのである」が、おかしな解釈になってしまう。同ページの、「動物は一つの腕によって客体に知覚標識を、もう一つの腕によって作用標識を与えているのである」(※この「腕」は比喩表現)からすると、「知覚標識=その動物にとって、対象物を利用できるようになるための手がかりとなる、対象物の物質・刺激(音や光など)・反応(行動など)の特徴」、「作用標識=その動物が、対象物を利用したことによって生じた物質・刺激・反応」ということになるのだろうか?ただそうなると、後述の話がさらに分からなくなってくるが……

・「すなわち、作用標識は知覚標識を拭い取るのである」(P19)について

はい分からないー!なにも分からないー!すなわってないよう……対象物になにか作用してしまったら、それは変化するでしょう?という話なのか?それとも、作用してしまったらその刺激(知覚)は不必要だから、動物の中でリセットされるでしょ?という話なのか?

・「すべての生物主体の行為の一つ一つのプロセスにとって決定的なのは、受容器が発した刺激を選ぶことと、実行器に一定の活動の可能性を与える筋肉の配置と並んで、何よりもまず、その知覚信号の助けを借りて、環境世界の客体に知覚標識を印す知覚細胞の配置と数とであり、またその作用信号によって、同じ客体に作用標識を付加する作用細胞の数と配置なのである」(P19-20)

なっがい!一文が超長い!春琴抄かっ!(※大好きです)「環境世界の客体に知覚標識を印す知覚細胞の配置と数とであり」のくだりが特に分かんないな…なんでそれが「行動のプロセスにとって決定的なのか」もわからん…「配置と数」が大事……ちょっとどういう事を想定しての発言なのかが分からない……

【感想】
・この時代は、「生理学者」と「生物学者」が別カテゴリ(現代だと、生物学者の中に生理学者が内包されている…的なのがあるような気がするのだけれど)、という点が面白い(P14-15)

・なんか「ダニは機械か機関士か?」というような話がよく出てきていて……生物機械論??デカルト???あってる???実はこの章のさらに前にある「はじめに」でも、生物の機械論は間違っているんじゃないか的なお話はしていた。この辺の理解には、哲学の本の到着を待たねばなりますまい……(P14)

・「シンプルで単純な機構の生物のこと、『下等生物』とか言うだろ?いやいやいや、でもシンプルなのって、行動の『まぎれ』がないから、生存性能的にはめっちゃ高いんだぜ……?」的なこの考え方、好きだな……そう、戦略や方法がシンプルなのは、それだけ無駄なく洗練されていて強い、という事でもあると思うんよね……(P22)

・来たよ来たよ!「動物によって、『時間』の概念……というか、価値?捉え方?スケール?違うよね」って話!!こういうのがね!こういうのがほんと好き!!てかこの時代に、もうここまで想定できていたんだ、というのが、何よりの驚き!(P23)

・このユクスキュルの「生物から見た世界」、生物学(そして哲学)の文脈で語られることが多いのだけれど……ユクスキュル自身は「物理学(的見解)」とかもかなり意識していない?あと「認知」とかもかなり気にして表現している印象をうける……(P23-24)

・「カントの学説」……分かりたいなあ……(P24)

・【要約】を書くときには、はしょらざるを得なかったけれど、動物の行動観察のまなざしや筆致がむっちゃ丁寧ですごくいい……好き……